我々人間を含む、様々な生物にはカチッ・サーといった自動的な行動パターンがあります。
中には擬態を駆使して刺激信号を与え、カチッ・サーを利用する生物もいます。
それは人間も同じで、例えば、直前の出来事に印象が操作されてしまう知覚のコントラストを利用した商売の手法がありました。
そしてこのような影響力の武器はまだまだ存在し、時には国の規模で働くことがあります。
施しを受けたら返さなくてはいけない?
とある大学教授がちょっとした実験を行いました。
クリスマスカードを、全く知らない人に送ってみたところ、その殆どに返事が来たというのです。
会ったことも名前も聞いたこともない、その教授に対してです。
クリスマスカードを受け取ったことにより、自動的に返事を出したのです。
これは返報性のルールで、様々な影響力の武器の中で最も強力といわれています。
「他人がこちらに何らかの恩恵を施したら、自分は似たような形でそのお返しをしなくてはならない」というものです。
このルールによって、親切や贈り物、招待を受けると、そうした恩恵をくれた人に対して、お返しをせずにはいられない気持ちになってしまうのです。
こうした恩義を伴う返報性は、人間社会や文化に広く浸透しているのです。
人類の発展と切っても切れない返報性
人類に広く共有され、根付いているこの恩返しの気持ちは、人間社会の進化に非常に大きく貢献してきました。
人が食料や労力といったものを他者へ与えても、決して無駄にはならないと確信できるようになったのです。
そして様々な資源を形の上では無償で与えたとしても、本当に無償で提供するわけではなくなったのです。
その結果、まず自分の資源を他者に与えることから始めなければならない行為に対しての心理的抵抗感が減りました。
そして、洗練され調整された、援助や防衛、商売の制度を作ることができるようになり、社会に多大な利益をもたらしたのです。
したがって、この返報性のルールが、この社会を通して私たちの心の奥深くに培われていても、決して不思議ではありません。
長く強く残り続ける報恩の義務
報恩の義務は永遠ではありません。とりわけ小さな恩義については、時間の経過と共に報恩の義務は薄れていくようです。
しかし、贈り物が本当に素晴らしく、記憶に残るようなものである場合には、報恩の義務は極めて長い間生き続けることになります。
その最たる例として、メキシコとエチオピアとの間で交換された5000ドルの援助資金の話があります。
1985年にエチオピアは、極度の貧困に苦しんでいました。
国の経済は破綻寸前で、食糧供給は長期的な干ばつと内戦によって徹底的な打撃を受けていました。
何万人もの民衆が病気と飢餓のため死に瀕していたのです。
こうした状況の中、5000ドルの援助資金が送られたのです。
しかしそれはエチオピアへ送られたのではなく、エチオピアから送られたのでした。
エチオピアの赤十字の現地職員が、その年メキシコシティで起きた地震の犠牲者を支援するために資金を送ったのでした。
あらゆる面で窮乏していたのにも関わらずエチオピアがメキシコに援助をしたのは、1935年にイタリアの侵攻を受けたときにメキシコが援助をしてくれたからだったのです。
このお返しをしたいという気持ちは、急迫した飢餓の中、文化も違う、遠くの土地、そして半世紀もの長い年月を超越していたのです。
おわりに
返報性のルールは私にはとても怖いものに見えます。
今までなにかのお返しをしなかったことなんて無数にあるからです。
お返しのしようがないものに関しては踏ん切りがつくでしょう。
では、目の前に存在する恩義に対して、お返しができない状況はどうでしょう。
はたしてお返しはできるのでしょうか、できないかもしれません。
その度、私は心に重荷をさらに積み重ね背負い続けることになるのです。
次回は、返報性のルールが適用されたケースをさらに紹介します。